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山桜


神さまのお座布団

桜は観賞される花として日本人にとっては最もポピュラーな植物です。 花見といえば桜のことですし、年中行事として市販カレンダーにも記載されるほど。 江戸時代後期にソメイヨシノがつくられるまでは、お花見の対象は山桜だったそうです。


日本に自生する野生種の桜は10種類ほどあるそうで、地域ごとに呼び名が変わります。 ソメイヨシノとの大きな違いは、開花と同時に葉もつけることです。


植物にはもって生まれた宿命があります。 ユリの種から発芽したものは、ヒマワリとして開花することはできません。 だから生涯、桜は桜として、ユリはユリとして、どのように見られようと、どんな風に思われようと、花の形を変えることはありません。


桜の女神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、散ってしまうもの、儚く美しいものの象徴として、日本神話の元型となっています。 さくらという名称は「咲耶(さくや)」から転じたという説も。


民俗学では、田の神を意味する「さ」と、神の御座(ぎょざ)である「くら」が結びついたという説があり、満開の桜には田の神が宿り、田植えから収穫まで見守ってくれると信じられてきました。


古来、御神体は岩とか山だったので、山桜が一斉に咲きほこり、薄ピンク色に染まるお山を仰ぎ見て、神様が降臨するためのお座布団と感じた心象風景は、現代人のわたしたちにも共感できるものがあります。


日本の哲学者で占星学の第1人者でもある松村先生は「さく」「さけ」「さか」は、「裂け目」などを意味し、次元間をつなぐ境界線が、ゆるくなる場所と仰います。 それは空間だけじゃなく時間にも存在し、夕暮れどきも、あちらとこちらをつなぐ扉が一瞬ひらく「逢魔が時」があり、そして夜から朝になる「夜明け」にも「さく」の時間は存在する、と。 1年でいうと春分と秋分がそれにあたります。


桜満開の木の下でぼんやりしたら、常世へ通じる黄泉平坂(よもつひらさか)の往来もにぎやかに、八百万の神々、先人故人の仏衆たちが、この時期ばかりは無礼講とはしゃいでいる、そんな様子を垣間見れるかもしれません。



鑑賞は干渉?


誰かにじっと見られているとき、その目線に込められたメッセージで元気になったり、気が滅入ったり、いろいろな気分が醸しだされます。


ステキ、ほれぼれしちゃう、応援してるよーというメッセージ目線は、とうぜん元気もやる気も起こります。 失敗しないか、まちがえないか、だいじょうぶか?というメッセージ目線は、圧を感じてしまい萎縮することもあります。 キライ、どっかに消えろ、ムカつくわーというメッセージ目線は、アドレナリンを放出させて、逃げるか戦うか「闘争逃走本能」にスイッチが入ります。

毎年大勢の人の目にさらされ、鑑賞対象になる桜は、どのようなメッセージ目線にも揺るがず、象徴としての役割を全うして散ってゆきます。 ・儚さ ・やわらかさ ・幻想的


植物たちの自己表現である開花は、その花独自の象徴を思い出させてくれる道先案内人です。 ・凛とした ・颯爽とした ・鷹揚とした ・洗練された ・エッジのきいた ・素朴 ・魅惑的 ・快活 ・可憐 ・天真爛漫 etc.etc...


種子から託された象徴としての役割、宿命。 花の美しさに目線を奪われるのは、その時々に必要な、思い出すべき象徴・イメージを受けとり、こころの滋養にしているからだと感じています。

人が「なにかを見る」という行為は脳で処理されます。 それは見知った経験値によって、あたまのなかにイメージをつくることから始まり、イメージをつくることは自分自身のエネルギーを分割する行為です。


イメージは自分をちぎって生み出された振動数なので、イメージがだんだんくっきりして濃くなってくると、物質的な重さをともなう振動数に落ちて、地上社会に出現します。

20代のころ強くイメージしたことは、50代になると出現してくるもんだなぁ、ゲーテ氏の残した言葉はほんとうだったんだなぁと、悲喜こもごもに人生を振り変える今日この頃です。



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